これまでと、秋の勉強

関数解析と出会ったのがちょうど一年前と思うと感慨深い。
関数解析との出会いで僕の数学観は間違いなく豊かなものになった。
ちょうど一年前には数学をやることの愉しさ以外には何も得られなかった自分が、指導教官の薦めて下さった流体の数学解析の専門書を読むにつれ関数解析学が如何に画期的で素晴らしいものであるかの一端を触れることができただけでなく、背景にある物理現象、難解な数式に物理的意味を付与できることの素晴らしさに圧倒された。

私は流体数学の専門書を年内に必ず一冊読み終えたく思う。
これは私にとってのケジメでもある。
来年の春からは八割方 数学からは離れた生活を送ることになるが、それが絶対に永遠の別れであってほしくない。

私が来年の春にいるであろう研究室と今の自分の共通点を見いだすなら電子の輸送現象であろう。

流体というのは日常生活の隅々まで行き渡るものなのであり、来年の研究が今のものとはまるっきり違うものだとしても、結局は自然現象の探求という点では変わらない。

むしろ学部~大学院レベルの数学をかじった私が物理 工学の世界へ駒をすすめることで 自然現象を生で感じたり、モデルの妥当性に貢献したりして物理、数学の隔たりを無くしていくこと パイプ役になることが私のささやかな人生の目標である。

能動的な勉強はそもそもは線形代数微積分のイプシロンデルタから始まり、やがては解析学に興味を持ち 関数解析と出会い、流体数学と出会い、輸送現象全般に興味を抱いた。

私の人生が今後どうなるか、私にもわからない。

秋の勉強は流体数学と固体物理と覚悟を決める。
それぞれ困ったら必要に応じて ルベーグ積分量子論といったところか

脱線ではあるが、関数解析の成果として流体をはじめとした偏微分方程式論以外に量子力学の確立がある。
関数解析をやったからには、これもきちんと勉強したいが、完全に趣味になりそうなので保留である。

勉強できるのは今のうちと思い勉強しておきたくもあるが、、、

国境の南、太陽の西を振り返る 考察めいたもの

ちょうど1ヶ月ほど前に
村上春樹の中編小説 「国境の南、太陽の西」を読んだのでそれについて軽く紹介した上で、思ったことを記します。

★あらすじ
まず、あらすじを三段階に分けます。

あらすじに関して、書くべき内容が偏っていたり所々間違えてそうな感じがするので、なるべくなら他サイトを参照して下されば幸いです。

(あらすじ1)

主人公ハジメは戦後間もなく1951年に生まれる。
彼は当時ではかなり珍しかった一人っ子であり、周りと違うことに対する、ちょっとしたコンプレックスならびに周りの人との距離感や孤独感を抱えていた。
そんな時、小学五年生の終わり頃、クラスに「島本さん」という女の子が転校してくる。
彼女も彼と同じ一人っ子であることや、足が悪かったり、周りとの距離感をおいていたこともあり、二人だけで関係を深めていく。
彼らはお互いにとって足りない何かを埋め合わせてくれるような存在として、中学に上がるまでの多感な思春期時代を過ごしてゆく。

しかし結局二人は別々の中学に進むこととなる。
彼は中学に入ると徐々に彼女と会うこともなくなり、全く新しい人生を歩み出してゆく。
彼は中学~高校時代の思春期、ならびに成長期を過ごしていくなかで日々自分が人間として成長しているということへの満足感のようなものを得る。

高校時代はガールフレンド、イズミとの出来事が書かれている。彼女は、彼の存在を精神的な意味で受け入れてくれていており、ある意味彼にとって特別な存在となるはずであった。
しかし、詳しくは割愛するが彼は最悪の形で彼女を裏切り、彼女から一方的に恨まれる形で別れてしまう。

さて高校を出ると生まれ育った地を離れて、都内の大学へ通う。しかし、彼を待っていたのは、何のおもしろみのない空白な時間であった。無味乾燥な大学生活、社会人生活と年を重ねるにつれ、だんだんと今生きているということに対する喜びのようなものを見いだせなくなっていく。時に彼は失望感や孤独感を抱えたまま、自分の存在理由を、島本さんや、イズミといった過去の記憶の中に求めたり、自分一人の趣味に没頭してゆく。

そんな中でも、旅先で偶然巡りあった現在の妻と三十に結婚し、家庭を持つこととなる。妻の父親は金稼ぎのノウハウを知り尽くしており、彼の援助の元で行ったバーの経営は大いに成功をおさめ、あらゆる面で何不自由ない生活を送ることになる。

しかし、何一つ不満のない人生すらも、逆にそれが彼にとって生きた心地のしない、借り物の人生のような感覚を抱かせてもいる。
結局彼は精神的な面では中高以来、というより小学校で島本さんと解り会えた日々以来ずっと低迷していることに変わりない。

そんなとき、「島本さん」が僕の前に姿をあらわす。

(あらすじ2)

島本さんは、数週間、あるいは数ヶ月に一回というペースでしかも決まって雨の降る夜に彼のバーに姿をみせる。別れる時も、彼女は次いつ会えるかを彼に明確には伝えない。それは彼女がいつ彼の目の前から永遠に消えてしまっても不思議ではないような不安感を彼に抱かせている。
彼女と過ごす幻のような日々の中彼の心は、彼女に近づきたい、理解したいという一心であまりにも切実に彼女を求めていく。
しかし彼女は彼がどこまで求めても、彼に何も教えてはくれない、全てが謎に包まれた存在である。
あるいは、彼女は彼にたいして、このまま家庭を全て捨てて自分を選ぶか、あるいはこのまま日常を壊さないままのいつ離ればなれになるかわからない関係を選ぶか、というような中間のない選択肢を言葉にはしないが、仄めかしている。

最終的に、彼女は、彼の目の前から姿を消す。

彼は、島本さんとの日々の回想のなかで彼女は自分と共に死ぬことだけを常に望んでいたこと、つまり彼が家庭を捨てて、彼女を選ぶということが、実は二人で死ぬこと以外にありえなかったのだということに気づく。

ともあれ結果的に彼は日常の中に取り残される。

さて、全体としてはこのような展開であるが、ラストは大事な場面が大まかに二つあるので、もう少し掘り下げておく。

(あらすじ3)

彼女が姿を消した直後、当然彼は強い喪失感を抱いていたのだが、以下の2つの奇妙な(どちらかというとホラーっぽい)体験をする。

1つは、自分がこれまで本当に島本さん本人と会っていたということを示す証拠が消えてしまっているということ。

そして2つめは、人混みを歩いているときに、島本さんらしき人物を見つけたと思い、それを必死に追いかける最中、信号の前で、偶然にも目の前でタクシーに乗っていたイズミの姿と対面する。
そして、注視すべきは、イズミからはもはや人間の持つべき表情が何もかも奪い取られてしまっているということ。

そんな奇妙な体験を経て、彼は憑き物が落ちたように、日常へと回帰する。

妻に心の底から謝り、もう一度ゼロからやり直したいと打ち明ける。
彼は、自分を懺悔し、今を生きる日常の中で、自分の存在価値を見出だすことに努力することを決心して一応話は終わる。

(補足)

ちなみに、最後での彼の年齢は三十代後半、即ち1980年代後半の出来事である。

バブル真っ盛りではあるが、その後バブルが崩壊し、新たな時代が突入してしまう前の不穏な足音を予感させてくれる。
(これについて言及できるためのあらすじの情報は全て割愛したのでこれ以上は触れない。というか他サイトで詳しく言及してありました)
(ちなみに今更ですがこの小説が発行されたのは1992年のようです)

☆考察

ここではこの小説の一番最後の一節についての解釈を記すことにする。

というのもそこに書かれたメタファーに彼の抱えてきた、あるいは今もなお抱え続けている心の深淵の全てが集約されているように思われてならないからだ。

以下引用。
『僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。
誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。』

ここで海は彼そのもの、魚は死を表しているように思う。
海に降る雨は誰にも知ることはなかった、と書いてあるが、それは自分の存在理由や不完全な自分を埋め合わせてくれるような何かを切実に求めようとする情動やそこで生じる孤独感や喪失感、心の葛藤も全て他の誰にも理解されないものであるということを言っている。
それは一見すると絶望的ではあるが、前向きに捉えれば彼の1つの大きな気付きだと受けとることができる。何もかもを見失いかけていた彼がこのタイミングである意味当然の事実に悟ることができたのだ、と。

魚は死そのものであるとのべたが、これは死ぬことを選んでいた島本さんそのものと捉えることもできる。そして注意したいのはそれは彼の心の中に存在していた島本さんではなく、彼とは独立に、というか完全に切り離された存在としての死にゆく島本さんである。

彼は彼女と過ごした時間を思い出すにあたり、彼女が非常に脆弱かつ危うい存在であったこと、つまりあっちの世界へ引きずりこまれていたことを認識することになるが、ここで重要なのは、自分が彼女を求める過程においても気づけば死という巨大な闇のなかに飲まれかけていたということだ。
本来なら一人の女性を切実に求めようとすることは、破滅にも、ましてや死にも繋がらない。
しかし、彼はただ単に彼女だけを求めていたわけではない。それは彼の生き方そのもの、すなわち常に現在の自分には満足せず、生活を見失い、周りを見ようとせず、妄想の中で彼の欠損を埋め合わせてくれる何かを追い求めていくような心そのものが、死と相性よく絡みうる危険なものであることを示しているのである。

逆ににいえばタイトルにある太陽の西とは、ある意味そういった彼の生き方が赦される素晴らしいところである。
そして、太陽の西は決して生きているなかでたどり着くことができない場所であり、そこへ向かおうとすることは自分や周りの人間を永遠に苦しめることでもある。

彼は島本さんとの日々のなかで、結局は自分が全てを捨てられず、生という限定された安全な非日常のなかで島本さんを求めていたに過ぎなかったこと、一方彼女は生そのものに強く失望するなかで、切実に彼と共に死ぬことだけを選んでいたのだというズレを認識していたわけであり、彼は死へ向かおうとする彼女の姿を見る中で、自分たち人間を何もかも奪い尽くしてしまう死の残酷さとも対峙し、死へのはっきりとした形での恐れを抱きながらそれを拒絶している。

同時に表情を持たないイズミとの邂逅は、イズミに限らず、自分が周りを見ずに生きていくなかで多くの人間を傷つけてきたという事の重大さに気づく場面であるといえよう。

僕は島本さんとの日々を振り返ることや、イズミとの邂逅を通して、今を生きるための努力を、そして妻や娘たち、今生きている周りの人たちに幸せを与える存在になるための努力をし、同時に日常の中で自分の存在価値を見出だす選択をする他ないと考えているのである。

とはいえ、それは島本さんへの未練がなくなったわけではなく、僕の心の乾きは決して満たされることはない。
僕はあくまでそのことを認識しているということであり、それが先のメタファーの真意である。

最後に、誰かがそっと手をおいてくれるという表現もその誰かが島本さんでも有りうるわけで、兎も角、彼を本当の意味で理解し埋め合わせてくれるような存在を今でも求めているのだということを表しているのだろう。

最後に、こういったことは何も彼だけに与えられた特殊な状況『ではない』ということは強調しておきたい。
我々人間も彼のように、少なからず誰からも理解されることのない内面つまり自分たちだけの海を持ち合わせているのである。
同時にそれは死にも結び付く危険なものである。我々は生きていく限りずっと誰にも気づかれない自分だけの海を抱えていかなければならない。
そして、それは生と死が0か1かのような明確な境界として顕れているわけではなく、我々の葛藤と共に死は絶えず我々の生を取り込まんと絡みついているということでもある。

勝てばいいのだ……

 

昨夜のワールドカップで日本のサッカーチームが、決勝へ上がるために試合を放棄し仲間内でパスするプレイングが話題になった。

私はサッカーはわからないので、試合そのものに対してとやかく意見するつもりはない。

ただ、この卑怯だと批判されるプレイングへの肯定派の考え、としての

「勝てばいい」理論が、盲目的で時に危険なことであることを少し述べておきたい。

 

さて、日本は21世紀に入り、とりわけ競争の時代だと言われている。

九十年代、ソ連の崩壊後の本格的な資本主義一元化された世界において、日本社会ではバブル崩壊による経済不振の中、加速する国際化と共に、産業構造は急変した。

終身雇用は幻想となり、労働形態が流動化される中、新しい時代を生きるために我々は個人の能力を率先的にアピールし、同時に多くの人々との競争によって利を獲得していかなければならないだろう。我々はそのような姿勢で生きることを免れない世代である。

 

さて、私は何も競争に対して批判的なわけではない。

むしろ競争自体は、個々の能力を存分に発揮し、社会を活性化させるうえで構造においても確実に必要不可欠な起爆剤である。

勿論私自身、競争自体好きな事ではないが、競争がなくなれば私のような小市民はすぐに怠惰になってしまうことはわかる。

一方で、競争に漏れてしまった人々へのセーフティネット、極端な物言いをすれば人権の確保はどうなっているのか?という問題がある。

そして、それはこれまでも絶えず向けられるべき問題であったことは確かだ。

結局、それに対する答えを用意できず、あるいは空想ばかりで具体策を提示できなかったことが、産業構造の変化の重みを一点に背負った結果社会から追い出されてしまったフリーターやホームレス等、数々の社会的弱者を生んだのだ。

我々は競争に負けてしまった弱者を切り捨ててしまった結果を見ている。

負ける人は要らない、適応できない人はいらない、と切り捨ててきたのだ。

 

さて、社会問題ではこういったことに対して一応は自粛的になることは多いが、スポーツともなればセーフティネットの不在は無視され、勝利への欲望が選手たちへ何の疑いもなく盲目的に向けられる。

ここでのセーフティネットとは、選手そのものの存在価値を保証してくれるような網である。これがなくなれば選手は、単に社会的地位を失うどころか、彼らの存在理由すらも奪ってしまう根源的なものであることは強調しておきたい。

思えば我々はそういった意味で、選手たちに何のセーフティネットも与えてはいない。

いや、それどころか我々は絶えず選手たちに勝ってなんぼである、勝たなかったらどうしてくれるんだ、と縛り付けている。

だから選手たちは卑怯と蔑まれるプレイングでも平然とやらなければなるまい。

それが『仕事』だから、と。

 

もしそれが『仕事』だというのなら、我々は今一度彼らの仕事が、彼らの価値が何たるかをはじめからとらえなおす必要がある。

彼らが単なる六十億人の勝利への欲望を満たすための装置として存在していたのだとするならば、我々は今すぐ観戦をやめて、テレビを破壊する以外に手はない。

勝つことへの執着を、個人の起爆剤として抱え持つものならば世界はまだ幾分と健全な方へ向かうのかもしれない。

しかし、我々はこういった感情を他者に求めることの方が多く、その目線の危うい側面に疑問視することなく無自覚な形で他人を縛ってしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

引きこもりは犯罪をしやすいのか?

引きこもりや孤独な人は殺人を犯しやすいなどと案に報道されるが、仮にこれが「正しい主張」であってもこういう構造を根拠や主張のない形で示唆すること自体無茶苦茶であるし、大きな論理の飛躍がある。
もし厳密にやろうとするなら、心理学者を呼び、引きこもりで殺人を犯した者たちの心のメカニズムを徹底的に分析しないことにはどうにもならないだろう。

一方で、引きこもり→犯罪者という図式は、現代において多くの一般人にあまりにも根強く浸透されているイデオロギーめいたものであるとも感じる。
実際それが議論されることやそれへの批判が絶えないこともその図式の根強さを物語っている。

今回は、何故そんな考えが浸透しているか?について考えることを通して、引きこもりと犯罪リスクの関係性について思ったことを勝手に触れる。

勿論こんなことを考えたところで問題は何も解決されないことも断っておこう。
まだ犯罪者の心理をいい加減な素人目線で予測してみる方がマシである。(勿論この記事もいい加減な素人論理を展開するのだが)

さて話を戻すと、感覚的に引きこもりが犯罪をしやすいと広く思われている理由として、というよりは1つの帰結として引きこもりは会話することがないからであると思う。
それは個人的には、先程より幾分と筋のいい物言いのように思う。

本質ではないが、引きこもり(名詞)→犯罪に比べ、会話しない(行動)→犯罪
の方がまだ真実に近づこうとしている意志を感じるのだ。

というよりはこれが議論のギリギリのスタートラインであり、もはや前者の図式は、単に人を中傷したいだけにさえ思えてくる。

そもそも引きこもりには諸説定義があるのだろうと思うが、(例えばヲタク的趣味がどうとか、ネットばっかやってるとか、)個人的には引きこもりというあくまで肯定的でない用語を、趣味がどうとかいう追加方式でやるよりも、人と会話をしない、という減点方式で定義する方がまだ自然だ。

そうした方が余計な対立を生まずにすむし、何より主張がズれない。
もはや根拠もなく、ネットは悪だ、アニメは有害だと宣うのは、無闇に意味のない対立を促し、不毛かつ危険である。
それこそ犯罪になりかねない。

さてでは会話しないことが、何故犯罪に結び付く要素を持ちうるとされるかを、逆に会話することでのメリットから考えてみよう。

僕の考えを一言でいえば、会話はある意味啓蒙、だからだ。

このあたりから、会話の有用性を多くの人々の抱く直感とは異なる形で述べたい。
つまり多くの人間がやりがちな会話そのものの認識論的な把握でなく、単に会話の1つの有用性を絞って説明したいのだ。

今回みたく初めからふわふわとした命題における、かつ素人の雑な議論では、物事を曖昧にしようと思えばいくらでも曖昧にできるのであるが、ここで(断定的な物言いは非難覚悟だが、あえて)僕は物事を曖昧にはしない。
逆に曖昧さを残したような、ふわふわとした直感はあえて書くには値しないものだとも考える。

つまり会話というのは、なんとなく賑やかで楽しくわいわい、時には傷つき、うざったい、けど全体的には満たされて、刺激的で豊かになるようなものである、みたいな漠然としたイメージを今回は使わない。

もし会話をそういう何かよく説明できないけど刺激的な行為と認識したのだとしたら、議論が曖昧になるだけじゃなく会話が犯罪を生む論理も成立しうる点に注意したい。
事実、会話は必ずしも陽な側面だけではない。
たった一人のほんの一言であっても、多いに人を傷つけ、そして傷ついた側は大きなトラウマを抱えることもあるのだから。

さてでは、会話における啓蒙とは何か?

それは、他者の持つ社会的な価値観やモノの考え方に目を向ける行為を通して、自分の価値観を理性的に認知し、見つめ直すきっかけを持つということである。

ここで重要な点が二点ある。

まず1つは他者の考えを聞くことである
その上では反対もあり賛成もある。
当然感情も入るべきである。
こいつはおかしい、とか俺はこういう考えを曲げない、と言ってみせても人間関係が壊れないなら差し支えない。勿論これしきで壊れてしまうのなら、どんどん壊すべきという見方もあっていいし、兎も角そこではなるべく正直になった方がいいだろう。
実のある会話は情動から顕れてくるはずだからだ。

2つ目は他者の価値観をその場でも後日でも構わないが、反芻し、改めて認識し、それを内側から理性的に学びとることである。
逆にその段階では極力感情を入れないほうがよい。
勿論好むと好まざるに関わらず感情は入ってしまう。
例えばあいつは不愉快だとか、言い方が気にくわなかったとか、なんとなくウザいとか、イライラが募ることもあるだろう。
勿論その逆の感情があればそれに越したことはない。(とはいえ過度な崇拝は盲信につながり危険)
しかし、感情論を相手の価値観の否定に繋げるのはやはり好ましくない。
頭のくるやつの人間性と、その人の価値観はある程度は独立に、別の次元で語られるべき話だ。

他者の価値観を正しく認識し、理性的に見つめ直し、 己を啓蒙することこそが会話の最大の処方箋である。

そのような前提の元では、会話をしない人は会話をする人に比べて犯罪のリスクがほんの少しばっかし高いという偏見めいた言説も、完全には否定はできない。

しかし、あくまでも他者とのかかわりを通じて己を理性的に見つめ直すことが大事なのであって、会話を通して自らを啓蒙しない人や、あえてそうする必要性のないであろう人にとっては会話というのは所謂犯罪リスクを下げるような効能はあまり望めないものだとも思うのだ。

summer night

理由はわからないけれど眠れないなあ。
生活リズムの悪化を直すために、10時に寝ようと試みるも 10時30分くらいから浅い眠りについて
案の定0時前に起きてしまった いつものパターン。

起きたらワールドカップで盛り上がっていたけれど、、

諦めてスマホ弄り。
やはり睡眠導入剤の摂取が求められているのかもしれない

小旅行

旅行してるなう
なうなので金沢の宿から更新なう

冬なので雪を見に北陸へ
今回は岐阜駅から高山線で富山経由で金沢へ

立て続けに鈍行接続便なので途中下車する時間なし。
まあ寒いし雪やばいからどうせしないのだけど。

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雪山の接続駅。

やっぱ日本海側は寒いっすね🌁⛄🌁

だけど金沢は雪あんまり積もって無かった
でも結果的に雪見れたからオーケーってことで

冬の到来

いつもだらだらしてる日曜に図書館に行く習慣をつけようと思いたって外出。
散歩も兼ねてる。
休日は人が少ないから歩きやすくていい
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行くときに撮ったやつ。
なんだか冬って感じですわね。
図書館は開館直後にもかかわらず、小学生から中高生までたくさん机に向かって勉強していてびっくり。
受験生かしらね。
若いのに凄い~