国境の南、太陽の西を振り返る 考察めいたもの

ちょうど1ヶ月ほど前に
村上春樹の中編小説 「国境の南、太陽の西」を読んだのでそれについて軽く紹介した上で、思ったことを記します。

★あらすじ
まず、あらすじを三段階に分けます。

あらすじに関して、書くべき内容が偏っていたり所々間違えてそうな感じがするので、なるべくなら他サイトを参照して下されば幸いです。

(あらすじ1)

主人公ハジメは戦後間もなく1951年に生まれる。
彼は当時ではかなり珍しかった一人っ子であり、周りと違うことに対する、ちょっとしたコンプレックスならびに周りの人との距離感や孤独感を抱えていた。
そんな時、小学五年生の終わり頃、クラスに「島本さん」という女の子が転校してくる。
彼女も彼と同じ一人っ子であることや、足が悪かったり、周りとの距離感をおいていたこともあり、二人だけで関係を深めていく。
彼らはお互いにとって足りない何かを埋め合わせてくれるような存在として、中学に上がるまでの多感な思春期時代を過ごしてゆく。

しかし結局二人は別々の中学に進むこととなる。
彼は中学に入ると徐々に彼女と会うこともなくなり、全く新しい人生を歩み出してゆく。
彼は中学~高校時代の思春期、ならびに成長期を過ごしていくなかで日々自分が人間として成長しているということへの満足感のようなものを得る。

高校時代はガールフレンド、イズミとの出来事が書かれている。彼女は、彼の存在を精神的な意味で受け入れてくれていており、ある意味彼にとって特別な存在となるはずであった。
しかし、詳しくは割愛するが彼は最悪の形で彼女を裏切り、彼女から一方的に恨まれる形で別れてしまう。

さて高校を出ると生まれ育った地を離れて、都内の大学へ通う。しかし、彼を待っていたのは、何のおもしろみのない空白な時間であった。無味乾燥な大学生活、社会人生活と年を重ねるにつれ、だんだんと今生きているということに対する喜びのようなものを見いだせなくなっていく。時に彼は失望感や孤独感を抱えたまま、自分の存在理由を、島本さんや、イズミといった過去の記憶の中に求めたり、自分一人の趣味に没頭してゆく。

そんな中でも、旅先で偶然巡りあった現在の妻と三十に結婚し、家庭を持つこととなる。妻の父親は金稼ぎのノウハウを知り尽くしており、彼の援助の元で行ったバーの経営は大いに成功をおさめ、あらゆる面で何不自由ない生活を送ることになる。

しかし、何一つ不満のない人生すらも、逆にそれが彼にとって生きた心地のしない、借り物の人生のような感覚を抱かせてもいる。
結局彼は精神的な面では中高以来、というより小学校で島本さんと解り会えた日々以来ずっと低迷していることに変わりない。

そんなとき、「島本さん」が僕の前に姿をあらわす。

(あらすじ2)

島本さんは、数週間、あるいは数ヶ月に一回というペースでしかも決まって雨の降る夜に彼のバーに姿をみせる。別れる時も、彼女は次いつ会えるかを彼に明確には伝えない。それは彼女がいつ彼の目の前から永遠に消えてしまっても不思議ではないような不安感を彼に抱かせている。
彼女と過ごす幻のような日々の中彼の心は、彼女に近づきたい、理解したいという一心であまりにも切実に彼女を求めていく。
しかし彼女は彼がどこまで求めても、彼に何も教えてはくれない、全てが謎に包まれた存在である。
あるいは、彼女は彼にたいして、このまま家庭を全て捨てて自分を選ぶか、あるいはこのまま日常を壊さないままのいつ離ればなれになるかわからない関係を選ぶか、というような中間のない選択肢を言葉にはしないが、仄めかしている。

最終的に、彼女は、彼の目の前から姿を消す。

彼は、島本さんとの日々の回想のなかで彼女は自分と共に死ぬことだけを常に望んでいたこと、つまり彼が家庭を捨てて、彼女を選ぶということが、実は二人で死ぬこと以外にありえなかったのだということに気づく。

ともあれ結果的に彼は日常の中に取り残される。

さて、全体としてはこのような展開であるが、ラストは大事な場面が大まかに二つあるので、もう少し掘り下げておく。

(あらすじ3)

彼女が姿を消した直後、当然彼は強い喪失感を抱いていたのだが、以下の2つの奇妙な(どちらかというとホラーっぽい)体験をする。

1つは、自分がこれまで本当に島本さん本人と会っていたということを示す証拠が消えてしまっているということ。

そして2つめは、人混みを歩いているときに、島本さんらしき人物を見つけたと思い、それを必死に追いかける最中、信号の前で、偶然にも目の前でタクシーに乗っていたイズミの姿と対面する。
そして、注視すべきは、イズミからはもはや人間の持つべき表情が何もかも奪い取られてしまっているということ。

そんな奇妙な体験を経て、彼は憑き物が落ちたように、日常へと回帰する。

妻に心の底から謝り、もう一度ゼロからやり直したいと打ち明ける。
彼は、自分を懺悔し、今を生きる日常の中で、自分の存在価値を見出だすことに努力することを決心して一応話は終わる。

(補足)

ちなみに、最後での彼の年齢は三十代後半、即ち1980年代後半の出来事である。

バブル真っ盛りではあるが、その後バブルが崩壊し、新たな時代が突入してしまう前の不穏な足音を予感させてくれる。
(これについて言及できるためのあらすじの情報は全て割愛したのでこれ以上は触れない。というか他サイトで詳しく言及してありました)
(ちなみに今更ですがこの小説が発行されたのは1992年のようです)

☆考察

ここではこの小説の一番最後の一節についての解釈を記すことにする。

というのもそこに書かれたメタファーに彼の抱えてきた、あるいは今もなお抱え続けている心の深淵の全てが集約されているように思われてならないからだ。

以下引用。
『僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。
誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。』

ここで海は彼そのもの、魚は死を表しているように思う。
海に降る雨は誰にも知ることはなかった、と書いてあるが、それは自分の存在理由や不完全な自分を埋め合わせてくれるような何かを切実に求めようとする情動やそこで生じる孤独感や喪失感、心の葛藤も全て他の誰にも理解されないものであるということを言っている。
それは一見すると絶望的ではあるが、前向きに捉えれば彼の1つの大きな気付きだと受けとることができる。何もかもを見失いかけていた彼がこのタイミングである意味当然の事実に悟ることができたのだ、と。

魚は死そのものであるとのべたが、これは死ぬことを選んでいた島本さんそのものと捉えることもできる。そして注意したいのはそれは彼の心の中に存在していた島本さんではなく、彼とは独立に、というか完全に切り離された存在としての死にゆく島本さんである。

彼は彼女と過ごした時間を思い出すにあたり、彼女が非常に脆弱かつ危うい存在であったこと、つまりあっちの世界へ引きずりこまれていたことを認識することになるが、ここで重要なのは、自分が彼女を求める過程においても気づけば死という巨大な闇のなかに飲まれかけていたということだ。
本来なら一人の女性を切実に求めようとすることは、破滅にも、ましてや死にも繋がらない。
しかし、彼はただ単に彼女だけを求めていたわけではない。それは彼の生き方そのもの、すなわち常に現在の自分には満足せず、生活を見失い、周りを見ようとせず、妄想の中で彼の欠損を埋め合わせてくれる何かを追い求めていくような心そのものが、死と相性よく絡みうる危険なものであることを示しているのである。

逆ににいえばタイトルにある太陽の西とは、ある意味そういった彼の生き方が赦される素晴らしいところである。
そして、太陽の西は決して生きているなかでたどり着くことができない場所であり、そこへ向かおうとすることは自分や周りの人間を永遠に苦しめることでもある。

彼は島本さんとの日々のなかで、結局は自分が全てを捨てられず、生という限定された安全な非日常のなかで島本さんを求めていたに過ぎなかったこと、一方彼女は生そのものに強く失望するなかで、切実に彼と共に死ぬことだけを選んでいたのだというズレを認識していたわけであり、彼は死へ向かおうとする彼女の姿を見る中で、自分たち人間を何もかも奪い尽くしてしまう死の残酷さとも対峙し、死へのはっきりとした形での恐れを抱きながらそれを拒絶している。

同時に表情を持たないイズミとの邂逅は、イズミに限らず、自分が周りを見ずに生きていくなかで多くの人間を傷つけてきたという事の重大さに気づく場面であるといえよう。

僕は島本さんとの日々を振り返ることや、イズミとの邂逅を通して、今を生きるための努力を、そして妻や娘たち、今生きている周りの人たちに幸せを与える存在になるための努力をし、同時に日常の中で自分の存在価値を見出だす選択をする他ないと考えているのである。

とはいえ、それは島本さんへの未練がなくなったわけではなく、僕の心の乾きは決して満たされることはない。
僕はあくまでそのことを認識しているということであり、それが先のメタファーの真意である。

最後に、誰かがそっと手をおいてくれるという表現もその誰かが島本さんでも有りうるわけで、兎も角、彼を本当の意味で理解し埋め合わせてくれるような存在を今でも求めているのだということを表しているのだろう。

最後に、こういったことは何も彼だけに与えられた特殊な状況『ではない』ということは強調しておきたい。
我々人間も彼のように、少なからず誰からも理解されることのない内面つまり自分たちだけの海を持ち合わせているのである。
同時にそれは死にも結び付く危険なものである。我々は生きていく限りずっと誰にも気づかれない自分だけの海を抱えていかなければならない。
そして、それは生と死が0か1かのような明確な境界として顕れているわけではなく、我々の葛藤と共に死は絶えず我々の生を取り込まんと絡みついているということでもある。