勝てばいいのだ……

 

昨夜のワールドカップで日本のサッカーチームが、決勝へ上がるために試合を放棄し仲間内でパスするプレイングが話題になった。

私はサッカーはわからないので、試合そのものに対してとやかく意見するつもりはない。

ただ、この卑怯だと批判されるプレイングへの肯定派の考え、としての

「勝てばいい」理論が、盲目的で時に危険なことであることを少し述べておきたい。

 

さて、日本は21世紀に入り、とりわけ競争の時代だと言われている。

九十年代、ソ連の崩壊後の本格的な資本主義一元化された世界において、日本社会ではバブル崩壊による経済不振の中、加速する国際化と共に、産業構造は急変した。

終身雇用は幻想となり、労働形態が流動化される中、新しい時代を生きるために我々は個人の能力を率先的にアピールし、同時に多くの人々との競争によって利を獲得していかなければならないだろう。我々はそのような姿勢で生きることを免れない世代である。

 

さて、私は何も競争に対して批判的なわけではない。

むしろ競争自体は、個々の能力を存分に発揮し、社会を活性化させるうえで構造においても確実に必要不可欠な起爆剤である。

勿論私自身、競争自体好きな事ではないが、競争がなくなれば私のような小市民はすぐに怠惰になってしまうことはわかる。

一方で、競争に漏れてしまった人々へのセーフティネット、極端な物言いをすれば人権の確保はどうなっているのか?という問題がある。

そして、それはこれまでも絶えず向けられるべき問題であったことは確かだ。

結局、それに対する答えを用意できず、あるいは空想ばかりで具体策を提示できなかったことが、産業構造の変化の重みを一点に背負った結果社会から追い出されてしまったフリーターやホームレス等、数々の社会的弱者を生んだのだ。

我々は競争に負けてしまった弱者を切り捨ててしまった結果を見ている。

負ける人は要らない、適応できない人はいらない、と切り捨ててきたのだ。

 

さて、社会問題ではこういったことに対して一応は自粛的になることは多いが、スポーツともなればセーフティネットの不在は無視され、勝利への欲望が選手たちへ何の疑いもなく盲目的に向けられる。

ここでのセーフティネットとは、選手そのものの存在価値を保証してくれるような網である。これがなくなれば選手は、単に社会的地位を失うどころか、彼らの存在理由すらも奪ってしまう根源的なものであることは強調しておきたい。

思えば我々はそういった意味で、選手たちに何のセーフティネットも与えてはいない。

いや、それどころか我々は絶えず選手たちに勝ってなんぼである、勝たなかったらどうしてくれるんだ、と縛り付けている。

だから選手たちは卑怯と蔑まれるプレイングでも平然とやらなければなるまい。

それが『仕事』だから、と。

 

もしそれが『仕事』だというのなら、我々は今一度彼らの仕事が、彼らの価値が何たるかをはじめからとらえなおす必要がある。

彼らが単なる六十億人の勝利への欲望を満たすための装置として存在していたのだとするならば、我々は今すぐ観戦をやめて、テレビを破壊する以外に手はない。

勝つことへの執着を、個人の起爆剤として抱え持つものならば世界はまだ幾分と健全な方へ向かうのかもしれない。

しかし、我々はこういった感情を他者に求めることの方が多く、その目線の危うい側面に疑問視することなく無自覚な形で他人を縛ってしまうのだ。