引きこもりは犯罪をしやすいのか?

引きこもりや孤独な人は殺人を犯しやすいなどと案に報道されるが、仮にこれが「正しい主張」であってもこういう構造を根拠や主張のない形で示唆すること自体無茶苦茶であるし、大きな論理の飛躍がある。
もし厳密にやろうとするなら、心理学者を呼び、引きこもりで殺人を犯した者たちの心のメカニズムを徹底的に分析しないことにはどうにもならないだろう。

一方で、引きこもり→犯罪者という図式は、現代において多くの一般人にあまりにも根強く浸透されているイデオロギーめいたものであるとも感じる。
実際それが議論されることやそれへの批判が絶えないこともその図式の根強さを物語っている。

今回は、何故そんな考えが浸透しているか?について考えることを通して、引きこもりと犯罪リスクの関係性について思ったことを勝手に触れる。

勿論こんなことを考えたところで問題は何も解決されないことも断っておこう。
まだ犯罪者の心理をいい加減な素人目線で予測してみる方がマシである。(勿論この記事もいい加減な素人論理を展開するのだが)

さて話を戻すと、感覚的に引きこもりが犯罪をしやすいと広く思われている理由として、というよりは1つの帰結として引きこもりは会話することがないからであると思う。
それは個人的には、先程より幾分と筋のいい物言いのように思う。

本質ではないが、引きこもり(名詞)→犯罪に比べ、会話しない(行動)→犯罪
の方がまだ真実に近づこうとしている意志を感じるのだ。

というよりはこれが議論のギリギリのスタートラインであり、もはや前者の図式は、単に人を中傷したいだけにさえ思えてくる。

そもそも引きこもりには諸説定義があるのだろうと思うが、(例えばヲタク的趣味がどうとか、ネットばっかやってるとか、)個人的には引きこもりというあくまで肯定的でない用語を、趣味がどうとかいう追加方式でやるよりも、人と会話をしない、という減点方式で定義する方がまだ自然だ。

そうした方が余計な対立を生まずにすむし、何より主張がズれない。
もはや根拠もなく、ネットは悪だ、アニメは有害だと宣うのは、無闇に意味のない対立を促し、不毛かつ危険である。
それこそ犯罪になりかねない。

さてでは会話しないことが、何故犯罪に結び付く要素を持ちうるとされるかを、逆に会話することでのメリットから考えてみよう。

僕の考えを一言でいえば、会話はある意味啓蒙、だからだ。

このあたりから、会話の有用性を多くの人々の抱く直感とは異なる形で述べたい。
つまり多くの人間がやりがちな会話そのものの認識論的な把握でなく、単に会話の1つの有用性を絞って説明したいのだ。

今回みたく初めからふわふわとした命題における、かつ素人の雑な議論では、物事を曖昧にしようと思えばいくらでも曖昧にできるのであるが、ここで(断定的な物言いは非難覚悟だが、あえて)僕は物事を曖昧にはしない。
逆に曖昧さを残したような、ふわふわとした直感はあえて書くには値しないものだとも考える。

つまり会話というのは、なんとなく賑やかで楽しくわいわい、時には傷つき、うざったい、けど全体的には満たされて、刺激的で豊かになるようなものである、みたいな漠然としたイメージを今回は使わない。

もし会話をそういう何かよく説明できないけど刺激的な行為と認識したのだとしたら、議論が曖昧になるだけじゃなく会話が犯罪を生む論理も成立しうる点に注意したい。
事実、会話は必ずしも陽な側面だけではない。
たった一人のほんの一言であっても、多いに人を傷つけ、そして傷ついた側は大きなトラウマを抱えることもあるのだから。

さてでは、会話における啓蒙とは何か?

それは、他者の持つ社会的な価値観やモノの考え方に目を向ける行為を通して、自分の価値観を理性的に認知し、見つめ直すきっかけを持つということである。

ここで重要な点が二点ある。

まず1つは他者の考えを聞くことである
その上では反対もあり賛成もある。
当然感情も入るべきである。
こいつはおかしい、とか俺はこういう考えを曲げない、と言ってみせても人間関係が壊れないなら差し支えない。勿論これしきで壊れてしまうのなら、どんどん壊すべきという見方もあっていいし、兎も角そこではなるべく正直になった方がいいだろう。
実のある会話は情動から顕れてくるはずだからだ。

2つ目は他者の価値観をその場でも後日でも構わないが、反芻し、改めて認識し、それを内側から理性的に学びとることである。
逆にその段階では極力感情を入れないほうがよい。
勿論好むと好まざるに関わらず感情は入ってしまう。
例えばあいつは不愉快だとか、言い方が気にくわなかったとか、なんとなくウザいとか、イライラが募ることもあるだろう。
勿論その逆の感情があればそれに越したことはない。(とはいえ過度な崇拝は盲信につながり危険)
しかし、感情論を相手の価値観の否定に繋げるのはやはり好ましくない。
頭のくるやつの人間性と、その人の価値観はある程度は独立に、別の次元で語られるべき話だ。

他者の価値観を正しく認識し、理性的に見つめ直し、 己を啓蒙することこそが会話の最大の処方箋である。

そのような前提の元では、会話をしない人は会話をする人に比べて犯罪のリスクがほんの少しばっかし高いという偏見めいた言説も、完全には否定はできない。

しかし、あくまでも他者とのかかわりを通じて己を理性的に見つめ直すことが大事なのであって、会話を通して自らを啓蒙しない人や、あえてそうする必要性のないであろう人にとっては会話というのは所謂犯罪リスクを下げるような効能はあまり望めないものだとも思うのだ。